<< 奥田民生のコンサートに行ってき... ブログだけでなくてホームページも >>

性風俗雑誌とインターネットの動向と子どもたちの未来について。

のび太君の通う学校がそうであるように、学校というのは得てして山のそばに立っていたりするものである。特に田舎では裏山を持った学校が多いように感じる。まぁこれは所詮私の実感。町に住み、都市の学校に通った人は別の感想を持つのかもしれない。ただ、私にとっては学校の原風景というのは、山なんかがセットになったものであると分かってもらいたいだけ。
ここ何年も山で遊ぶなんてことをしていないけれど、少年時代の僕――僕らにとっては十分に魅力的な場所だった。どんぐりやまつぼっくりを拾ってみたり。おもちゃの銃を持ち込んで戦争ごっこをしてみたり、山にはいろいろな夢が落ちていたんだなと振り返ってみて思う。
――そして、それらを遥かに凌駕する夢も落ちていたのだ。
まぁ、簡単に言えばエロ本なんですが。

地面の湿気や雨で、形の変わってしまったその本を、僕らは大騒ぎしながらゆっくりとめくったりした。その中にある女性の裸に少し興奮して、それがお互いに恥ずかしくてなんとも形容のできない声を出しながら見せ合ったりした。今になって振り返るとかわいいもんだなと思う。
なんとなくそれが見てはいけないものだと知りながら、それは大人の世界だと思いながら、そういう本と付き合っていたのだと、思う。人が性を感じたきっかけというのには色々なものがあると思うけど、僕らは多分そのとき性の目覚めを迎えたのだ。こうやって書くと、とても恥ずかしい芽生えだ。

今の子どもたちはどうなんだろうかと、時々思う。自分が山に行くようなこともないから分からないけど、道路を走っていても、さりげなくエロ本が落ちているということはあまり目にしない。いつの間にかうらぶれた道路沿いにあったエロ本の自販機は撤去された。僕たちがババを引いて真剣に悔しがったあの自販機が。本屋には相変わらずエロ本のコーナーがあるけれど、さすがに小学校高学年や中学生がガンガン本屋でエロ本を買っているのだとは思えない。レンタルビデオ屋でもあんまり見ない。やっぱりインターネットなんだろうか。
確かにインターネット上にはエロ動画やエロ画像といったものがいくらでも転がっている。それはまぁ別にどうということも無いのだけど最初からそのコンテンツに触れてしまう子どもは、かわいそうだと思う。僕が少年だった頃からあやふやになりつつあった大人と子どもの壁は、今では本当に見晴らしがよくなってしまっている。
今では大人と子どもの間に分かりやすい壁は無い。ひざくらいのブロックがあるくらいだと思う。簡単に乗り越えられるし、大人の世界がよく見える。僕にとっては大人と子どもの間は簡単に抜けられそうな竹垣の壁だったけど、子ども側からは大人の側がよくは見えなかった。だから大人になりたいと思っていた。

インターネット上では、ネットワークの向こう側にいるのが子供か大人化というのはあまり意識されない。せいぜい文章で大人らしいとか子どものようだとかあたりをつける程度。だから、知識と技術さえあれば大人として扱われる。それはある意味で不幸なことだと思う。
子どもは人生のある期間において、きちんと子どもであるべきなのだと思う。大人にならなければできないことがあり、大人になろうとかっこ悪くじたばたしたほうが良いんじゃないかと思う。

個人的には本質のところでは大人と子供に違いは無いと思っている。だからこそさまざまな通過儀礼が存在していたのではないか。現在ではそういったものはあまり意識されないけどだからこそ大人の世界に対する憧憬を子供が描いたほうがいいんじゃないか……と思っているのです。

だからそのうち僕が子供のころ誰かがしていたように。
いいポイントにエロ本を散布してきます。


エロ本についてこんなに熱く語る人間が大人かどうかは謎。


「山や橋のたもとに落ちているエロ本」が想像しにくい諸兄は「お父さんやお兄さんが隠していたエロ本」とか「週刊現代のグラビアページ」とかで想像してくれればオッケーだ!
[PR]
by tomo1y | 2006-01-25 00:11 | 日々思うこと
<< 奥田民生のコンサートに行ってき... ブログだけでなくてホームページも >>