<< せっぱ 出前映画塾in大社 >>

だから機体の差が戦力の……

表現というものには色々あるわけだけど、
ある意味で読み書きができれば作ることのできる「小説」とか「詩」といった分野に比べて、
機械を介して作らざるを得ない映画や写真といった表現においては技術の優劣をもって
表現それ自体を判断する人が多いのだなぁ……と思う。もちろん自分自身も含めての事だが。

もちろん手書きの小説を渡されたときに、字が汚かったりすると読む気はしないもんだと思う。
そういう「入り」の部分としては結構なウェイトを占めることだろうとは思う。
けど、結局小説を読んでいて私にとってつまらなきゃ、字がきれいでも私は読むのをやめるし(※)
万年筆が100万するとか、インクがものすごく貴重なものだとか、
そういうのはあんまり小説の本質には関係ないことだろう。

映像の場合はそういうことで評価されるという部分が確かにある。
音質が悪いとか、画質が悪いとか。確かにそういうのも大事なことではあるし、
映像を取り巻く技術的な部分は日々進歩をしていて、昔のものを見れないというのもある(※)
画質が劇的に向上したことに対して驚いたり、その技術的な努力に感動することというのもある。
けれども、やっぱりその技術は、表現においては本質的な部分ではないと思う。
映像がぼろくて音声がぼろくても、すばらしい映像というのは多分存在しうるのだ。
この間の出前映画塾で会った人や、錦織監督なんかと話をしていて思った。

多分それに対して自分なりの方法論を見つけていける人が強いんだろう。
「映像をきれいにしたかったらプロ使えばいいんだよ」という錦織監督の話は考えると深い。
もちろん、要求にこたえられる絵作りとか撮影のできるスタッフはとてもとても貴重だけど、
或る意味でそれは技術の進化によって必要なくなったり、他の人に替われたりするものだよな。
すごく映像の技術的なことに詳しい人を見ていてそういう風に思った。


本読みの悲しい性として、読みかけてやめるのが悔しいから読み終える……というのはあるけど。

デジタルは実際にこういうことがある。逆にフィルムは画質的にはそうでもない。
フィルムで映画を撮影するというのは、出てきたときからかなり完成され、枯れた技術である。
音声は昔の映画は「無い」から問題にならない。トーキーになった頃の一部の映画では
機材の関係で現在に比べると聞き苦しい音声というものも存在しないではない。
とはいえフィルムの映画とか写真は初期からかなり完成された技術でもある。
[PR]
by tomo1y | 2006-10-24 20:47
<< せっぱ 出前映画塾in大社 >>