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「吉日」について

先日職場で見かけた或る文章に「…年…月吉日」という文字があった。
それを机の上においていると「これはどうなんだろうネェ」という人がおられて、すこしその話をしていた。

吉日というからには、凶日というのも想定されるし、例えば大安や仏滅といった「六曜」と同じもので、
こんなものに「科学的」根拠はないし、それはつまり同和問題なんかと根っこが同じなので
使うべきではない……と、同和の研修なんかでは言われる。
穢れの思想なんかと同じで、対して科学的に意味の無いことを基にした差別で、
この差別に根拠なんて無いのだと、大体人権同和の研修では言われるわけだ。

そういうことがあるから、六曜に拒否反応を示す人がいるのを知っているし
吉日も同じように捉えられるというのはわかる。だから自分が文章を作るときに、
あえてそれらの事を入れて文章をつくろうとは思わない。
不愉快な思いをする人がいることをわざわざする必要は無いのだから(※)
ただ、この「科学的」に根拠が無いことだから、差別は……という話が好きではない。
例えば血の穢れにしたって、死者の穢れにしたって、「血」や「死体」というのが感染症を媒介する
ということを私達は知っているし、多分過去の人たちはそれを経験則として知っていたのだと思う。
問題は現在のように体系化された科学でなかったから、強烈に忌避されたのではないか。
過去の人を愚かであったと哂うだけでいいのだろうかと、先ず一つ思うのだ。

それから、科学的に根拠が無いことだから……という論法は、
いやらしい見方をすれば「科学的に根拠があれば」いいということになりかねなくていやだ。
人間それぞれの間に横たわる違いの中には、科学的に違うものもたくさんあるだろう。
けど、それに起因する差別は、科学的に違うから仕方が無い……と言うことは無いと思う。
乱暴で単純な言い方かもしれないけれど、差別ってのは自分がされる可能性もあることで、
非常にくだらないくせに人を傷つけるから、だからやめよう。
理屈がどうとか、理論がどうとかじゃなくて、やめよう。ではいかんのかな?と思う。

差別を使用とする心ってのはまったく理論ではないわけで。
たぶん、それを止められるものも理論ではないんじゃないかと思う。


事勿れ主義……かしらん
by tomo1y | 2006-11-14 19:59 | 日々思うこと
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